2014年3月11日火曜日

東日本大震災から3年、大災難に遭遇して知った台湾の好意と善意

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サーチナニュース 2014-03-10 22:57
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東日本大震災から3年、大災難に遭遇して知った台湾の好意と善意

 三陸沖を震源として巨大地震が発生、東日本大震災を引き起こしたのは2011年3月11日の午後2時46分だった。
 日本にとって極めて大きな災難だった。
 日本人の心は暗く沈んだ。
 しかしそんな中で、台湾が示してくれた絶大な好意は多くの日本人の心に「希望」の2文字をもたらしてくれた。

  当時の状況を振り返ってみよう。
   大津波が発生したこともあり、多くの人が命を失った。
 財産も失われた。
 地震にともない発生した福島第一原発の事故で、今なお故郷に帰れず、また行方不明の親族の捜索もかなわない人が多くいる。
 為政者が「想定外」を逃げ口上にするのは許されることではないが、多くの日本人にとって「想定外」の事態が発生したことは厳然たる事実だった。
  状況の推移は決して楽観できなかった。
 日本人の心は暗く沈んだ。

 しかしそのような中でも、人々を勇気づけてくれる明るい希望の光はあった。
 そのひとつが世界各地から寄せられたさまざまな支援だ。
  中でも多くの日本人を驚かせ、喜ばせてくれたのが台湾からの義捐金(ぎえんきん)の多さだ。
 もちろん、金額の多寡で単純に、感謝の気持ちに差をつけてよいわけではない。
 何らかの手を差し伸べてくれたこと自体がありがたいことだ。
 しかしそれにしても、台湾からの義捐金の多さに、多くの日本人が驚いた。
 もともと、親日的な雰囲気が濃厚ということは、比較的知られていた。
 しかしそれにしても、最終的に200億円を超え、世界最多になったことなどが伝えられると、多くの日本人が逆に
  「いったいどうしてそこまでしてくれるのか」と驚いた。

 義捐金や支援物資だけでなかった。
 台湾の馬英久総統は地震発生の11日、「日本側の要請があれば、ただちに派遣したい」として、救援隊をいつでも出動可能な状態にして待機させた。
 しかし、台湾の救援隊は丸2日間も待機させられることになった。
 後になり、
 「日本側当局が国交のない台湾の救助隊を現地に『一番乗り』させたのでは、政治的に差しさわりが出ると判断したらしい」
などと伝えられると、日本人の多くが、自国政府に対する怒りを感じた。
 そして、台湾や台湾人に対して申し訳ない気持ちになった。
 台湾との関連で日本人が違和感を感じたのはそれだけではない。
 2012年の大震災1周年の追悼式典で、台湾の代表は世界160カ国と国際機関の代表のために用意された席ではなく、企業代表などの席をあてがわれた。
 指名献花からもはずされた。
 やはり、多くの日本人が違和感と憤りを感じた。
 
  さまざまな状況を通じて、日本人の台湾に対する関心と好感度が高まった。
 そして、「なんとかして台湾の人々に、感謝の気持ちを伝えたい」との気運も高まった。
  その象徴的な例が、2013年3月8日に行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)予選第2ラウンドの日台戦だった。
 だれから指示されたわけでもない。
 東日本大震災時の台湾からの支援に対する感謝の気持ちをプラカードで示そうと考えた日本人ファンがいた。
 観客席のあちこちで「謝謝台湾(台湾、ありがとう)」などと書いたプラカードが掲げられた。  この日本人側の動きは台湾でも広く伝えられた。
 今度は、日本人が台湾に対する感謝の気持ちを示したことで、台湾でもインターネットで「感動した」といった書き込みが、次々に寄せられた。
 それだけではなかった。
 試合は日本が押されていた。3回に先取点を許し、9回表にようやく3:3と追いついた。
 そして延長10表に1点を追加し、4:3と逆転。
 10裏の台湾の攻撃を無得点に抑えてかろうじて逃げ切った。
   台湾球界は日本を「野球先進国」として尊敬してきたという。
 いや、そういう事情がなかったとしても、スポーツ選手として勝利を目前にして逆転負けしてしまったことは、悔しくてしかたなかったはずだ。
 落胆の気持ちは想像するにも余りある。
  しかし台湾チームは試合後、観客席に深々とお辞儀をして感謝と敬意を示してくれた。
 これには日本人が驚いた。
 日本人と台湾人が互いに相手を「尊敬できる人々、信頼できる人々」と強く思った瞬間だった。

  東日本大震災は日本、そして日本人にとって極めて大きな災難だった。
 失われた多くの命は、2度と取り戻すことができない。
 発生前の暮らしを、今なお取り戻せない人も多い。
 それでも、台湾の人々が日本に示してくれた好意と誠意は、多くの日本人を感動させてくれた。
  それにしても、多くの日本人にとって不思議だったのは、大震災に際して台湾人がどうしてそこまで、日本を助けようとしてくれたかということだった。

 そのことを端的に語ってくれたのが、台湾の李登輝元総統だ。
 直接の発端は1999年9月21日未明に発生した台湾中部大震災に対する日本の支援だった。
 日本の救助隊は外国からの救助隊としては最も早く、地震発生当日の夕方には台湾入りした。
 人数も145人と最大規模だった。
 李元総統によると
 「決して私たちは孤独ではない。日本をはじめとする国際社会からの関心と協力が、どれほど私たちの支えになったことだろうか」
と、当時を振り返った。
 ちなみに台湾中部大震災が発生したのは李元総統の在任時だった。
 李元総統は日本からの支援をただ「ありがたく受け取って」いただけではない。
  日本は国会議員の働きかけで、阪神淡路大震災時に使用した仮設住宅約1000棟を台湾に贈った。
 ただ、日本から贈られた仮設住宅は台湾側が別に用意した仮設住宅より小さく、見劣りがした。
 そこで李総統は「日本人の面子(メンツ)を傷つけてはならない」と考え、家電製品を手配して日本からの仮設住宅に配備した上で、被災者に供給した。
 台湾の被災者の日本に感謝する気持ちが減じないようにとの、心配りだった。
  1999年の台湾中部大震災、2011年の東日本大震災と、日本と台湾は共に自然からの大きな打撃を受けたが、相互に「人の善意の循環」を実現することになった。
   しかし李元総統は、自分のさまざまな配慮を鼻にかけるようなことは一切していない。
 それどころか、東日本大震災に対しての台湾の支援については「(日本に)少しは恩返しできただろうか」と、あくまでも謙虚に語った。