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サーチナニュース 2013/11/28(木) 13:23
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1128&f=politics_1128_002.shtml
台湾・民進党は相手にせず…中国政府「独立の立場、取り下げよ」
中国・国務院台湾事務弁公室(国台弁)の範麗青報道官は27日の記者会見で、台湾の民進党が独立を旨とするかぎり、大陸側は同党と交流することはできないと述べた。
28日午後に始まる民進党の対中政策拡大会議(華山会議)の結論を「相手にしない」と釘をさした格好だ。
台湾の最大野党である民進党は7月から断続的に対中政策拡大会議(華山会議)を開催している。
11月27日の同会議では、同党所属で元行政院長(元首相)の謝長廷氏らが提唱する提案が改めて討議されるとみられている。
同提案は
★. 「積極的に(大陸側との)両岸交流に参画する」、
★. 「両岸の政治勾留を重視し、具体的な政策を調整し、人々の支持を得る」、
★. 「積極的に憲政を推し進め、国民主権の精神を実現させる。
台湾の憲政についての(大陸側との)共通認識を、対話の基礎とする」
との3部分からなる。
謝氏は9月の時点で、同提案に「『台独党綱(台湾独立党綱領)』の立場を調整」との内容を盛り込んでいたが、党内で謝氏に近い人からも支持を得られず、撤回した。
中国大陸側にとって、民進党綱領にある「独立主張」は絶対に容認できない。
謝氏の現在における提案は9月時点と比べ、中国大陸にとってみれば、大幅に後退した内容だ。
国台弁の範報道官は、
「民進党と大陸の交流の根本的な障害になっているのは、(民進党)が台湾独立の立場を堅持していることだ」
と述べ
「これまで開催されてきた華山会議の状況を見ても、民進党はいまだに、問題の本質がどこにあるのか、はっきりとわかっていない」
と主張。
さらに、民進党が大陸との交流を始めたいならば
「現実をはっきり認めて決断を下し、現実的ではない台湾独立の主張を真に放棄すべきだ」
と述べた。
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◆解説◆
今を生きる台湾の人にとって、最も大切なのは「安定と繁栄」、「価値観の維持」と言ってよいだろう。
現実面を考えれば、台湾の政権が独立を宣言するのは、ほぼ不可能な状態だ。
仮に台湾が独立を宣言すれば、中国は武力に訴えるまでもなく、台湾との貿易の停止、大陸内の台湾資産の差し押さえなど、経済封鎖をすればよい。
軍事力行使ではないので米国も介入しにくい。
台湾経済は破綻する。
政権がもたなくなるのは確実だ。
一方で、中国との“統一”に応じることには否定的な人がほとんどだ。
中国側の基本的な主張は「一国二制度による台湾の本国復帰」で、台湾の現状は変えずに「統一」するとの説明だ。
台湾側にこの方式を受け入れる気がない大きな理由に、「共産党への不信」がある。
台湾は戦後、大陸からやって来た国民党が、人権をまるで無視した独裁政治を続けた。
台湾人の記憶からぬぐいさることのできない「暗黒時代」だった。
台湾ではその後、普通選挙を実施し、民主制度を樹立することに成功した。
しかし大陸ではいまだに、共産党が一党支配を続ける体制が続いている。
人権などについての問題も多く伝えられている
台湾では、共産党の暗黒面を強調する教育が長く続いた。
そのためもあり、現在の共産党の体質を、かつての国民党の強権支配とかぶせあわえて理解してしまう。
さらに、「一国二制度のモデルケース」とされた香港についても、「大陸側の“影響力行使”は、ますます露骨になっている」と見られている。
そのため、多くの台湾人は
「一国二制度を受け入れた場合、何をされるか分かったものではない。
いや、分かりすぎるほど分かる」
と考える。
以上により、台湾が大陸側の統一提案を真剣に検討する大前提は、共産党から強権発動、弾圧、秘密主義、閉鎖性などの「特殊体質」がなくなり、かつ、台湾の多くの人が
「共産党が完全に変質したと納得する」
ことになる。
2008年に国民党の馬英九政権が発足して以来、大陸と台湾の交流は活性化し、台湾を訪れる大陸人も急増した。
ただし、大陸人の粗暴さや無神経な振る舞いに
「やはり、われわれとは違う“人種”だ」、
「われわれと中国人を一緒にするな」
と改めて感じている台湾人は多く、台湾人の親中国度を高めたとは、とても言えない面がある。
歴史的に見ても、台湾に太古から住んでいた先住民(台湾の用語では原住民)を除き、大陸から人々が移り住んできたのは明代だ。
明朝は台湾を支配していたわけでなく、自発的にやってきた人々が台湾に住み着いたという構図だった。
しかし清朝成立後、明の復興を掲げる鄭成功が拠点としたため、清朝は台湾を攻略。
その後は統治した。
しかし、清朝は台湾を軍事的な理由で支配しただけだった。
台湾は「化外の地(皇帝の支配が及ばない土地)」とみなされた(清朝政府の公式文書もあり)。
清朝に台湾の産業を振興したり、生活環境を整備しようという動きは乏しかった。
1887年には台湾初の基隆-台北間の鉄道敷設などの動きもみられるようになったが、台湾は1895年、日本に割譲された。
台湾を本格的に開発したのは日本だった。
日本には、台湾の資源や物産を自国のために最大限に利用する植民地主義の発想が強く、反乱を容赦なく鎮圧するなどもあったが、台湾にしてみれば初めての「まともな統治」の到来だった。
台湾の発展に生涯尽くした日本人も珍しくはなかった。
異民族支配を打倒した1911年の辛亥革命の熱気も、台湾人にとっては「関係のない話」にすぎなかった。
つまり、戦後になり国民党とともに台湾にやってきた人々を除き、台湾は「中国という国」から特に恩恵を受けたわけではなかった。
「中華文明の後継者」との意識はあっても、「中国人」という意識を持つ機会はほとんどなかった。
戦前から台湾に住む人とその子孫にとって、大陸との統一に
「それほどの利点があるとは思えず、特に感情や意欲がわくわけでもなく、失うものやリスクばかりが大きい」
と感じる人が大部分ということになる。
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